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ブログを再開します!
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長い間ブログの更新をしなかった...
飽きたの?どうしたの?色々と心配する声も多く頂き、
申し訳ないと思いつつもどうしても更新をする気が起きなかった。
そして昨年他界した親父のこともそうだった。
自分の中でどうしても吹っ切れないでいた...
実は書きかけのブログもあったのだが、結局は更新してない。

だから今日は親父の事を書く。
そしてこれからブログを再開し、前へ進み出す事にする。
これは天国の親父へのメッセージであり、自分への言葉でもあるので、
読む、読まないは各自で判断して欲しいと思う。
そして人の死に関わる記述もあるので内容や文章に違和感を覚える方もいるだろう。
勝手だがそんな時は迷わずにこのブログを閉じてブックマークから削除してもらえればありがたい。

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2011年12月24日
それは一昨年のクリスマス・イブから日付が変わる頃だった。
気ままな生活が好きで、一人暮らしを好んで暮らしていた父親が吐き気と腹痛を訴え、自ら自転車で病院に向かったらしい。らしいというのは深夜ということもあり本人は遠慮をしたのだろう、僕に連絡をくれることもなく1人で病院に向かったのであった。深夜の救急担当医の判断で彼は風邪と診断された。そして高齢でもあるので用心をして一晩病院内のベッドに泊めてくれたまでは良かったのだが...

翌朝、父は看護士の方にお願いをして僕の携帯に電話をかけさせ伝言を伝えた。
「入院しているので迎えに来て欲しい」と。
まさかこれが父親からの最後の言葉になるとは夢にも思っていなかったのだが。

実はこの時点では僕も看護士さんの話で、風邪をこじらせたのか?程度に、
気軽に考えていた。
早朝だったのと、「入院」という言葉に驚き、
急いで病院に向かうために渋滞を避けバイクで自宅を出た。
その間1時間足らずだったのだが、到着すると何故か親父はICUの病床にいた。
あれ?風邪のはずじゃ...
看護士に状況を聞くと「さっきまで意識もあって話をしていたのですが...」と。

だが現実には父の意識は無く、反応も鈍い。
病状の説明をしたいのでと、担当医に別室に呼ばれ話を聞くと、
どうやら風邪ではないようなので、CTとMRIによる精密検査をしたいとのことだった。
もちろんその場で同意をして検査を終えるのを待ち診断の結果を聞くと、
何と腎細胞癌があるという。それも相当な大きさだと写真を見せながら担当医は僕に説明を始めた。
確かに画像では大きな影が見えたのだが、
先週父と話をした際には具合が悪いなんて言ってなかったし、
不審に思った僕は「そんな大きな腎細胞癌があったとして何か自覚症状はないのですか?」と若い担当医に尋ねると「高齢なので感覚が鈍っていることもあるので...」と言葉を濁し、
「ほぼ診断に間違いは無いと思います」と彼は自信をもって断言を下した。

腎細胞癌、父は気付かなかったのか?何か前触れはなかったのか?
この時点で僕はもっとこまめに父に会っておけば良かったと思った。
そして自宅に電話を入れ、さらに妹にも連絡を取り、二人の到着を待っていると、
担当医が再びやってきて「どうも納得のいかない点があるので自分の母校の大学病院で精密検査をしたいのですが」と言ってきた。
もちろん断る理由も無いので、その場で了解すると救急車の到着を待ち、
揃った相方と妹と父の乗った救急車を追いかけるように大学病院まで向かった。

そして大学病医での診断は「腸閉塞で緊急に手術が必要です」と変っていた。
戸惑いながらも腎細胞癌でなかったという安堵感はあったのだが、「今手術をしないと間違いなく24時間以内に生命の危機に直面します」つまり確実に死が待っていると大学病院の医師は冷静に僕にそう続けたのだった。。

つまり選択の余地はなく手術をするしか父の命を救う術は無いということだ。
「すぐに手術をしてください」とお願いをすると、それでは...と出された書類が5〜6通はあっただろうか?全て手術に関する承諾書の類いで、麻酔での事故の可能性や高齢故に手術中に最悪の事態が起きる可能性もある、等々。

もちろんリスクを負いたくないのは判る。だがここまで同意書(異議の申し立てをしないという趣旨)に書かなければならないほど日本人の信頼関係は稀薄になり、
どこかの国のように誰でもが法廷闘争で訴えるような社会になってしまったのか?
ハッキリ言えば全てをお金に置き換えるということだが...

「そんなに誓約書を書かせなくても僕も家族も何も文句は言いませんよ」
日頃から医は仁術と思っている僕は無駄だと思いながらも 口に出して伝えると、
案の定「一応決まりになってますので」と言われ、渋々だが承諾書を書くことにした。
だがそんな僕が目を通した書面は現実には何もかも信頼して医師に任せるしか無い患者の家族にとって、その文言は氷のように冷たく、遠く突き放され、死に対する恐怖心さえ覚えるようなもので、
もしかしたら確実に手術中に死ぬんじゃないか?そう思えるような冷酷で非常な内容に感じられた。

ともかく僕は全ての書類にサインを済ませ手術の開始を待つことになった。
待合室で手術が始まるのを待っている間に寝不足と突然の出来事でウトウトしたのかもしれない。
そんな僕の脳裏に浮かび上がっては消え、また浮かび上がっていたのは忘れもしない僕の小学校の入学式の日のことだった。といっても入学式そのものの記憶はほとんど無いのだが...

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当時タイミングが悪く自宅を引っ越したので、形としては越境入学となり、僕はバス通学を強いられることになった。その小学校1年生の入学式の日、母親と2人で行った入学式のその帰りのことだった。

昼食後に急に腹痛を訴え交差点でうずくまった母親の様子に、
ただならぬ思いを子供心に感じた僕は、最寄りの交番まで行きお巡りさんに救急車を呼んでもらった。その当時は(今から半世紀近く前なので)携帯電話なんてものは無く、仕事に出ていた父とは連絡も付かず、
結局昼過ぎから深夜までたった独りで6才の僕は母親の手術が終るのを待ち続けていた。
最近の記憶は怪しいのに(笑)何故かお巡りさんがみせてくれた拳銃やしばらく相手をしてくれこと、病院内の様子や生まれて初めて乗った救急車の内部など、そんな大昔の記憶はビジュアルを伴って鮮明に思い出せるから不思議だ。

そして長時間に及ぶ手術が終わり、父親や母の実家から祖母がやってきたのはすでに深夜に近かったのだが、それまでは泣くこともなく独りで待ち続けていた僕だったが、父や祖母らの顔を見た瞬間に大泣きをした記憶がある。その時病院の先生が「強い子だね〜今まで全く泣くこともなかったよ!」と父親に話しかけたのを今もハッキリと覚えている。
その当時の僕の心境は「泣いちゃいけない!」男の子だし、母を守らなきゃ。
そう思っていた。我ながら可愛いものだ(笑)

そして手術室に父が姿を消してから4時間を少し過ぎたころに、「無事に手術が終った」と執刀医のドクターが待合室にやってきた。その彼の表情は疲労感が漂っていて心の中で「ありがとう、頑張ってくれて!」と呟いていた。

そして後ほど詳細をお話ししたいとのことで、患者サイドとしてはこの「後ほど」に何か凄く意味があるように思えるのだが、緊張した面持ちでドクターを待っていると「急患が入ったので少し待って欲しい」と伝言が入った。救急指定の大学病院だから不思議はないのだが、この待っている時間の長さが身に沁みる。ようやくドクターが面談室にやってきたのは手術後2時間近く経過した頃だったろうか、手にはプラスチック製の大きなタッパー状のものを持っていて、その表情は先ほどよりも更に疲れきっているように見えた。

ドクターの義務として執刀医の務めとして好むと好まざるに関わらず、切除した患部を見せなくてはならず、僕らもそれを確認する義務がある。
そのタッパー状のものには切除した患部が収められていた...
実際にはそれを確認したのは僕だけのようで、どうやら相方と妹はフリだけで見なかったらしい。
そして今後の事についてと、ドクターは話し始めた。
当初は高齢でもあるので最初から人工肛門の装着を想定して手術を始めたのだが、開腹をしてみると思いのほかに内臓が綺麗なので思い切って患部を切除して繋ぐことにしたと。さらに一応現時点では手術は成功であること、だが高齢故に予断は許されないと続け、暫くはICUに入る事になることも。

手術の成功を聞いて正直なところ僕らはまずホッとした。
最悪の場合には手術中の死さえも覚悟をしていたので、これは朗報であった。
もちろん乗り越えなければならない山は多く楽観はできないが、日頃から節制と鍛錬の人であった父だからきっと大丈夫だろうと勝手な思いもあったのも事実だった。

そして入院の翌日から僕らの病院通いが始まった。
といっても、ICU(集中治療室)にいるので面会時間はせいぜい10分が限界だが、それでも通える日は毎日通った。たとえ僅か10分でも、そして人工呼吸器を付けられていて意識がなくても、そんなことは僕らには問題じゃなかった。
病院に通う事で何かが好転するなんて、これっぽっちも思ってはいないが、
それでも入院当初は本人と意思の疎通が多少はできていたようで、痛い?と聞くと頷いて、
辛いか?と聞くと首を横に振って健気な反応を示していた。

一人暮らしが好きで気ままに暮らしていた父だが、年に一度だけ正月に我が家にやってきて1泊して帰るのがここ数年の慣例のようになっていた。
だがこの年の正月は正月自体をほとんど意識する事もなく終っていた。
いつの間にか年は明け、いつも気遣っていた父の大好きな孫の成人式の日を過ぎていた。
体調の良さそうな日にその写真を見せると父は頷いていた。
今となってはどこまで理解していたのかは判らないが、
その瞬間だけは正気だったと僕は思っている。

本来なら回復傾向に向かって良いはずの時期なのに、相変わらず人工呼吸器は外されること無く、
意識も朦朧とした状態が続いていた1月中旬。
病院から呼び出しの電話が鳴った。緊急連絡先として伝えておいた僕の携帯電話だったが、
24時間それこそ肌身離さず持って歩き、寝る時にはベッドに持ち込み、
充電を切らす事の無いように予備のバッテリーを用意していたのだが、
この頃は電話が鳴る度にドキッとしていた。
何かあったのか?いつもそんな思いで通話ボタンを押していた...

手術後の経過が思わしくなく、もしかしたら腸内のウィルスが患部から漏れている恐れがあるという。そもそも最初の時点でもこれが最大の問題で、ウィルスが体内に回り全身の機能不全の症状を起こしており、特に肺機能と腎機能の低下が著しいとのことだった。一旦は手術により良くなったように見えたが、やはり回復の遅さから判断して同じ症状が発生している可能性があるので、もう一度開腹手術をしたいという。もちろん反対する理由は僕には無かったが、最初の手術で開放されたと思っているはずの親父の気持を察すると何ともやりきれない気分だった。

しかし選択は生か死かの二つに一つ。
辛かったが「お願いします」と良くなるのであれば...という思いだけで了承した。
そして再び幾多の誓約書を記入し、手術を待つ時間。前回の手術で待合室での緊張感を嫌というほど思い知り、今回は順番に病院を出て近所のファミレスで時間を潰す事にしたのだが、
やはり落ち着くものではなく、気もそぞろに病院に戻り結果的に皆で待合室で待つ事に。
やがて手術は再び成功したという知らせが届いた。
本当にこの時の父の頑張りは凄いと思った。
自分だったらどうだろうか、我慢できただろうか?
87歳の年齢と生命力を考えると奇跡に近い結果だった。

これで何とかICUを出て一般病棟へ。家族の願いはその一点に変化していった。
だが残念ながら僕らの期待通りに症状は回復せずICU暮らしは続き、既に2ヶ月を経過していた。
その間に人工呼吸器は気管切開を受け喉から注入され、人工透析は1日おきに繰り返され,輸血もすでに体内の全血液が入れ替わる程になっていた。

そんなある日、病院からの電話で担当医が話をしたいと言ってきた。
決して良い話じゃないだろうと思いながら病院に向かい、面談の時間を待っている間にも急患が救急車で運ばれてくる。悲痛な面持ちの家族をみていると頑張れ!と心の中で応援している自分がいる。
そして重い気持で挑んだ面談は、やはり繋いだ患部が思わしくなく人工肛門を装着したいのですがということだった。「どうしますか?」声こそ低く穏やかだったがその言葉には選択の余地はなかった。

こんなのは選択肢じゃない!誰でも生きる可能性を求めるに決まっているじゃないか!3度目の手術、それも人工肛門を3つも付ける?人の体をなんだと思っているのだろうか?

そして悲しみはいつのまにか怒りへと変っていた。「手術しないとどうなるのですか?」 多少声を荒げ僕は担当医に詰め寄ったのだが、「確実に死にます...」というこの一言で選択肢は残されていず、思いの全てを飲こみ拳を握りしめながら「お願いします」と告げるのが精一杯だった。
この手術をしたら回復するのか、意識が戻るのか?ハッキリ言えば確証が欲しい!
そんな思いもあったが、それを僕は口にすることはできなかった。

そして3度目の手術。正直に言えば無理かもしれない...そう思っていた。
しかし手術は無事に終わり成功したと担当医は三度目もそう伝えてきた。
だが正直に言えば、僕はこの時点で多少の後悔をしていた...
父をこんなに苦しませて良かったのか、そしてその結果がこれか...
仮に一般病棟に移れても気管切開をした彼が声をだすことは難しく、
退院できる可能性はほとんど無い。

人の運命を自分が判断するなんてできるはずがない!
でも一番苦しみながら頑張っているのは父だから、そして彼は絶対に諦めずに生きたがっている!
そう思うことで、3度目の手術で父を苦しませることを心の底から詫びた。
実際に意識は朦朧としているのに、2度目の手術室に入る際には相方の手を握って離そうとはせずに首を激しく横に振っていた。「嫌だよね、でもお父さん頑張って元気になろうね!」どんな思いで相方が声をかけたか?彼女の心中を想像するだけで今も涙がでてくる。

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だが時間の経過は残酷でもあるが、時として救いになることもある…
2月も後半になるとそろそろF1シーズン開幕の準備をしなくてはならない。
とてもそんな気分ではないが、宿の手配やフライトの手配、
例年ならばとっくに始めている開幕に向けた多くの作業が全く手に付いてない。

この頃は24時間のうち、起きている時間のほとんどは父のことを考えていた。
彼が元気でいる時にはあり得ないような親孝行な息子だった(笑)
そして実はこの時点で開幕戦のオーストラリアは行かないと僕は勝手に決めていた。それはありきたりかもしれないが、国内にいれば仮に何かがあっても間に合うかもしれないという慎ましくも寂しい願いがあったからだ。

F1の取材を始めて25年目のシーズンに初めて開幕戦に行かないという選択をしたわけだが、
もちろん簡単な決断ではなかった。だが正直に言えばさほど悩んだ末の決断でもなかった。
F1と父、ある意味においては簡単な決断ですらあったのかもしれない。
もちろん僕が日本に居れば何かが良くなるはずはないのも判っているが、
F1よりも遥かに大切な事、というよりF1なんてどうでもいい!
比較をする程のモノではないというのが本音でもあった。

仕事と家族という決断で家族を選んだ僕はプロとしては失格かもしれない。
ただ今までの僕だったら迷わずに仕事を選んでいただろう。
若い頃は仕事に生き甲斐を求め、仕事をすることで自分の存在を証明できるような気がしていたからだ。もしかしたらこれが老いなのか?だとしたら、僕も世間並みの55才になったのということか?
だがその決断は今も後悔もしてないし、今後も同じような状況があれば迷わずに僕は家族を選ぶだろう。

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そしてこの時、何よりも大きかった相方の存在だった。
僕以上に父を愛し、労り気を遣い優しくしてくれた。
最後には父は何かあると僕ではなく、必ず相方の携帯に連絡するようになっていて、
僕にはそれがなんとなく微笑ましく嬉しかった。
またある時ふと気付くと親父の車のナンバーが僕の車と同じ数字になっていて、
つまりそれは相方の誕生日なのだが、
たいした意味は無いのだろうがそれすらも僕は嬉しかった。

いつもなら仕事のスケジュールで追われ、海外にいることが多い僕なのに、
そのオフを狙ったような父の入院。それでもこなさなければならない仕事があると、
相方は一人で病院に向かい、意識の無い父と「話をしてきたよ!」
「今日は少し反応があったかな?」などと僕に話してくれた。
自分の人生においてこんなにも素晴らしい伴侶の存在があって、
他に何が必要なのだろうか?
いつしか自分よりも大切と思える存在を知ったことにより、
僕の思考や生き様は大きく変化を遂げていた。

もしも彼女に出会っていなかったら...
僕は仕事はできるが何事も冷静に判断を下し、残酷なジャッジも平気でできる。
そんな男になっていたはずだ(多分ね)
F1カメラマンとして世界を飛び回り外車を乗り回し、ホテル暮らし。
おそらく世間的には悪くないと思われるかも知れない。
だが帰る所、いや帰るべき所の無い暮らし。
ホテルと空港しか記憶に残らない「旅」ではなく「移動」の日々の繰り返し。
いま想像すると虚しくなってくる。
そんな僕に家族の在り方を、そして自分よりも大切に思える存在があり得ることを教えてくれたのが彼女だったのだ。

2月24日
再び病院から呼び出しがかかった。そして面談が始まったドクターの第一声が、
「覚悟はしていてください...」回復が思わしくないのは日々の病室通いで判ってはいた。
だが面と向かって最後通告を受ける気分は最悪だった。
「どのくらい?」「明日かもしれないし、明後日かもしれません...」
そうなんだ...確実にその日が近づいてきたということか...
日々緊張感に包まれて病院通いをしていることで、どこか安心感があったのも事実だった。
「今日も病院に行かなくちゃ」という勝手な安心感。
だがその微妙な安定感も土台から崩されたのであった。

そして運命の2月27日を迎えた。
午前中に病院から家族で来てくださいという呼び出しがあった。
もちろん覚悟はしていたし、死という認識もあったけど、
いつもとは全く違う暗い気分で病院へ向かった。
自宅から車で1時間程度の距離だったが、その間、相方と僕はほとんど会話をしなかった。
ただ空の蒼さだけがやけに眩しく感じていた。

病院に到着して、いつもの手続きを済ませICUに向かうと、
誰の目にも明らかに弱っている父がいた。。
機械が定期的に表示する数字は下がっていたが、安定しているように見えた。
リズミカルにピッと発する電子音だけが響くICUの個室。
「大丈夫だよね?」朝から病院に詰めていたので、
相方は済ませなければならない用事があり、最寄りの銀行まで出向いた。
僕も妹も平気だと思った。

しかしそのほんの一瞬を狙いすましたかように父の呼吸と心拍数は下がって行った。
あっ、相方に連絡をしなくちゃ!
しかし連絡をする間もなくあっけなく山を打っていたグラフは平らになり、
ピーという連続した電子音が鳴っている。
ここまでもう充分苦しんだはずだからと、最初から無理な蘇生はしないと決めていた僕らの意志通り、
ドクターは時計を見詰めている...
相方が慌てて戻ってきて、それを待っていてくれた彼は静かに「ご臨終」ですと時刻を告げた。

入院してから2ヶ月余り、食べ物も、水も飲めず、会話もできずに逝った父。
腹へってるだろうな、のど乾いてるよな...変な感想だがこれがその瞬間に僕の脳裏に浮かんだことだった...

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人には判らないが、僕にも相方にも素晴らしい父だった。
一人暮らしと自由をこよなく愛し、節制と鍛錬の日々を送っていた親父。
毎日100回のスクワットと腹筋、87歳とは思えない意志の強さ。
僕がすることに一度も反対をしたことはなく、そしてまず怒る事も無かった。
一度だけ悪ガキだった小さい頃に縛られて押し入れに放り込まれたことがあったが、
それも今となっては良い思い出だ。
そして半ば決まっていた私立中学の入学を拒む僕を連れて行った近所の喫茶店。
生まれて初めて入った喫茶店でミルクセーキを飲みながら僕の話を聞いてくれ、
「皆と同じ学校に行きたいんだ!」という僕の気持を尊重してくれて、
「お前の好きにしろ」と言い、反対する母を説得してくれた。

大学の付属高校だったけど、自分が進みたい学科が無く、
体育会系一筋だった僕が、大学に進学せずに突然写真の道を選んだ時にも何も反対はしなかった。
ただし、大学に行ったと思って4年間は与えるが、
それを過ぎてモノにならなかったら自衛隊に行けと本気で言っていたけど。

初めて買ってもらった一眼レフ、ニコマートに50mm/f1.4の標準レンズ。
そしてもしかしたら僕の写真の原点かもしれないもう一台のカメラが手元にある。
それは写真好きだった父が僕と妹をよく撮ってくれた、オリンパスの35-Sというカメラだ。
子供の頃の僕のオモチャでもあったのだが、
茶色い皮のケースに入れて父が持ち歩いていいたことが懐かしい。

昨年、母が亡くなった年齢を超え、
自分自身がとっくに人生の折り返し地点を過ぎた今、
残された時間に思いを馳せるようになるなんて、二十歳の頃には想像もしなかった。
ましてや自分がいつか死を迎えるなんてことは考えもつかなかった。
ただ、子供の頃から宇宙の話や膨大な時間の経過の話を聞く度に、
自分の存在しない世界について想像するとゾッとした感覚は今も残っている。

それでもこの歳になっても寝る前に明日何があるか楽しみで、
遠足の前の日の子供のようになかなか寝付けないことが多いのだが、
そんな僕を見て相方はまるで子供のようね!と失笑している。
もちろん毎日が楽しい事ばかりではないが、日々がイベントのようで、
そう悪くない日常ではないかと勝手に思っている。

若い頃から自分とは、自分らしさとは...ずっとそれを考えながら生きてきた。
自分なりの答えはあるのだが、それが正解なのかどうか、
おそらく死の間際まで判ることはないだろうし、あるいは最後まで判らないかもしれない...

でもだからこそ、これからできることは何でもやる。
そして思いっきり楽しみ、思いっきり仕事もする、それでいいじゃない?
今はそれが僕らしい生き方だと思うからだ。

甚だ勝手ですが、ご無沙汰してしまった皆さまと、
またご縁があればブログや現実でお会いできることを楽しみにしておりますので、
今後とも宜しくお願い致します。
                         
                 2013年1月27日
                         MICROPARIS/宮田正和
by MICROPARIS | 2013-01-28 03:20 | Etc...
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