あの日から6年が過ぎた。 どれだけ時間が経過しようとも、決して忘れることなどできないだろう。 シーズンオフを過ごし2011年のF1GPの開幕戦でオーストラリアに向けて色々な準備をしている最中のことだった。 その直後からしばらくはテレビに釘付けとなり、流れてくる映像はとても現実とは思えないものばかりで、 人間のちっぽけさを思い知らされた未曾有の大惨事だった。 正直に言えばF1どころじゃない、その前に僕にできることはないのだろうか?毎日自問自答を繰り返していた。 被災地に向かおうか?幾度となく考え、現実を思うと自分の非力さを嘆いていた。 開幕戦のオーストラリアに向かうという使命感は薄れつつあったが、 そんな時に海外の友人やF1ドライバーたちから心配するメールや激励のメッセージを受け、 悲しみの中に感謝と喜びが生まれていた。 そして自分にできる一番得意なこと、そう写真を撮ること、 その写真の力で日本を元気にしていきたい!強く思いオーストラリアへ向かうことにしたのであった。 6年という時間が過ぎて、そして今年も3月11日を迎えた…僕よりも若く将来のある若者たちの多くの命が瞬時に奪われた。 夢の途中、いや入り口ににすら届いていないような若い彼らの無念さを思うと切なさで涙が溢れてくる。 でも何故か僕は生かされたのだ。そこにはきっと訳があるはず。 その答えはまだ見つからないが、あの日から自分にできることは何でも全力で挑むことにしている。 限られた時間、与えられた時間が何よりも大切に思えるからだ。 今年のF1SCENEも僕を応援してくれる多くの友人たちに捧げたいと思う。そして何よりも僕のそばで苦しい時も楽しい時も一緒に過ごしてくれている相方に感謝したい。 本当にありがとう! #
by MICROPARIS
| 2017-03-12 12:14
| LIFE
今年の最終戦の地、アブダビでドライバーズ・タイトルがN・ロズベルグのチャンピオンで決まった。
もちろんシーズンを通して頑張ったからのタイトルだと思う。 でも僕はどちらかといえば絶対王者のように圧倒的に強い孤高のチャンピオン・タイプが好きだから、 実は密かにルイスの逆転チャンピオンを期待していた。 せめてニコが最終戦を勝ってタイトルを決めてくれたなら、 僕の彼に対する評価も変わったかもしれないのだが... そしてまさかこんな瞬間に出会うとは... それはマシンがグリッドに向かう15分ほど前のことだった。 数え切れないほどのテレビカメラやメディアが群れをなすかのように集まっているメルセデスのピット前。 その一番慌ただしい時に、何故かその瞬間だけ僕の目の前に空間が開き、メカニックの姿も消えた! この写真を自分で見てもスタート前の一番忙しい瞬間には見えない。 思わずシャッターを切った、2カットで人が入ってきた。 でも満足できる一枚が撮れた。 そしてルイスの逆転タイトルを予感したのだが... 残念。でもこれで来年がまた楽しみになってきた。 マシンも変わり、レギュレーションの変更もあり、どんな勢力図になるのか? 今年の冬のテストは見逃せないかもしれない。 長いシーズンが終わった。国内レースも既に終えているので、 これで今シーズンのレースの撮影は終了だ。 気がつけば暦はもうすぐ12月、時間の流れがドンドン早くなるように感じる。 若い頃には無限に続くと思われた時間が足りないと感じる今日この頃、 来年は色々とアニバーサリー・イヤーなので何か企画しようと思っている。 そのためにもこのオフシーズンを頑張らねば。 2016年11月27日 アブダビ・ヤスマリーナサーキットにて。 #
by MICROPARIS
| 2016-11-28 03:51
| F1
F1SCENEの歴史はTeam ZEROBORDER、そして大袈裟でなく僕の歴史の一部でもある。
2004年にパリの6区、Rue de Seineのオフィスを拠点にして始まったF1SCENE、 そのコンセプトは「写真だけが真実を語る」というシンプルだが写真の力を要求されるテーマでもあった。 そして写真の持つ魅力を大切にかつ効果的に生かすために、大判サイズでハードカバー、 年間4冊というスタイルでスタートをした。 こんな豪華な本を年間4冊も出すなんて... 無謀かとも思えたが、ともかく僕はやってみたかった。 誰も考えないようなことかもしれないし、出版の世界では非常識だったかもしれない。 それでも諦めきれずに、何とか体制を整え本の制作、出版が始まった。 そして無我夢中で走り出した僕を止めることは、もう誰にもできなかった(笑) フランス、ドイツを始めヨーロッパを中心に、北米、そして同時に日本でも販売を開始した。 F1SCENEは世界をターゲットにF1グランプリの持つ魅力をアートとして捉え表現し、 F1の世界だけではなくデザインやアートの世界でも次第に評価されるようになっていった。 当時はホンダやブリヂストンを始め多くの日本企業がF1の世界に関わっていた。 いい時代だったと言ってしまえばそれで終わりだが、誰もがF1に夢を持って向き合っている、 そんな時代だった。 やがて日本とF1の関係が次第に希薄になり、撤退する企業が増え、 もはや日本はF1にとって何が何でも欠かせない、そう言われた時代とは変わってしまっていた。 もちろんF1にも責任はある。自分達の最大の魅力を失いかけていることに気づかず、 誤った方向に進んでいたのも事実だし、ファンよりもスポンサーに向き合っていても 誰も不思議に思っていなかった。 誰がF1にパワーの規制やスピードの抑制を望むだろうか? エンジン回転数の制限?誰もが自分の耳を疑った。 イヤープラグはF1には欠かせないアイテムだったし、 シルエットも含め迫力という最大の魅力を捨ててしまったF1には、 もはや惹かれるものは無いとさえ感じたほどだ。 しかし必死の形相でコーナーを攻めるドライバーや油にまみれて徹夜で作業をして、 明らかに寝不足で、無精ヒゲを伸ばしていても晴れやかな顔でいるメカニック達を見ていると、 30年前の光景が僕の脳裏に蘇ってくる。 それは僕が初めて行った1987年の開幕戦のブラジルGPのピットの光景だ。 どんなにハイテク化が進もうと、実際に作業をするのは人であり機械ではない。 あの頃と何も変わっていない光景がそこにはあった。 もう一度F1を見直してみるか...そんなきっかけを与えてくれたのはマシンではなく、 ドライバーでありメカニック達であった。 究極のレースだから、Formula Oneだから、だからこそ拘る。 ワンメイクのレースでドライバーの技量を競うのもいいだろう、 でも僕は大人の男が世界中から集まり、必死になって1/1000秒を削ることに全てを賭けている、 そして勝てば子供のように無邪気に喜び、時には悔しさに涙を流す、 そんなグランプリの世界がたまらなく好きだ。 今年、F1SCENEは12年目のシーズンを迎えている。 僕の想いの全てを込めたこの「本」を続けて来られたのは多くの友人やパートナーのおかげである。 今、そのF1SCENEの歴史ともいえるバックナンバーをオンラインストアで販売することにした。 2011年からはイヤーブックとして出しているが、かつて年間4冊をハードカバーで出していた、 その挑戦の記録を一人でも多くの方に見てもらいたと思うからだ。 自分で言うのも何だが、スラリと並んだバックナンバーを見ていると、 誇らしく、少しだけ自慢したい気分になった(笑) もしも気になる一冊があれば是非取り寄せて手にとってほしいと思う。 決して後悔はさせない! 最後に地道で大変な編集作業をこなしてくれた相方に感謝! As always, thank you for your suport! F1SCENE ONLINE STOREはこちらから。 #
by MICROPARIS
| 2016-09-07 00:00
| F1
韓国での女子バスケットボールの世界選手権は、
取材そのものは順調にいったのだが、皆様の期待通り、何もなかった わけではない(笑) 帰国前夜のこと。 当時の韓国は戒厳令が敷かれていて、 午後11時にはホテルに戻らなければならなかった。 この時の乗ったタクシーが次から次へ相乗りで乗客を乗せ、 最大4人の乗客が乗った。 ん?どうなってるんだ?運転手が何か言ってくるのだが、 韓国語のできない僕には全く理解できず、「O.K」と頷くしかなく、 一人だったら20分足らずの目的地なのに回り道をした結果、1時間近くかかり、 かつ料金はメーター分を請求された。さすがに腹がたったので英語と日本語で文句を言ったが、 全く通じず、僕はメータよりも少ない、妥当だと思われる金額を払い車を降りた。 もちろん運転手は何か叫んでいたが、それも通じないので関係なし!(笑) お互い様だろう!そう思いながらホテルへ戻った。 まあこれから浴びるトラブルの嵐から見れば、これはほんの洗礼みたいなものだが、 これで海外で自分の意見を伝えるのに語学の必要性をハッキリ感じ、 最低でもどこへ行っても喧嘩のできるようになろうと心に誓った(爆) 小さなトラブルはあったけど、 何とか無事に戒厳令下の韓国での女子バスケットボール世界選手権の取材を終え、 日本に戻ると、初めてのヨーロッパを取材で回るオーダーが入った。 スウェーデン、イタリアを経てスイスを回る単独取材行だった。 憧れのヨーロッパ!ずっと憧れていた映画の舞台。 まさに天にも昇る気分だった… しかし、その旅の宿の手配やクレデンシャルの申請などを、 自らの手でやる必要があり、当時はまだファックスも普及していないヨーロッパの国もあり、 その頃渋谷にあったKDD(国際電信電話株式会社)に行き、テレックスを関係各所に送った覚えがある。 テレックスって…そう、あの穴の空いた紙テープみたいなものだけど、 今や知らない人の方が圧倒的に多いだろう。 そして諸々の手配をなんとか済ませ、成田空港でチェックインを済ませ、 キャッシュをトラベラーズチェックに変えようとしたのだが… 100万円の現金をチェックに変えるには全てのチェックにその場でサインをしなければならない… 当時1ドル=200円ぐらいの相場だったと記憶しているが、 約5000ドルで、それを20ドルのチェックに替えると250枚になるのだが、 その全て、一枚ずつにその場でサインをしてください!と窓口のお姉さんに言われるし… でも盗難にあったりしたらまずい。 チェックインを済ませたとはいえ、時間は気になる。 結局必死でサインを済ませ、ギリギリで機上の人となったのだが、 実はそれまでは日本語のサインをしていたのだが、これを機会ににより速くサインができる、 英文スタイルの自分のサインを考え出したというオチもある。 初めてのロングフライト。当時はヨーロッパに行くには通称南回りか、 北回りのいわゆるポーラー・ルートしかなかった。 そして当時の主流であったDC8などでは、 航続距離が足りず、直航便の運用は不可能で、何れにしてもどこかを経由するしか無かったのだ。 初めてのアンカレッジ、そして妙に日本語の怪しいおばさんたちの作る「うどん」 どれも今となっては懐かしい思い出だ。 最初の到着地はフランス、パリ。映画のシーンでも最も憧れていた街だ。 実は最初の目的地であるスウェーデンに行くには日本からは直接乗り入れがなく、 どこかヨーロッパの都市を経由しなくてはならない。 選択肢はロンドン、フランクフルト、そしてパリ… 今回の旅は自分で手配関係を行っているので、 フライトの手配を自分でするのであれば、当たり前のようにパリ経由を選択。 たったの一泊、それもパリには夜着いて、翌日の午前中にはフライトでストックホルム向かう。 12時間足らずの滞在、今なら当たり前のように空港エリアのホテルを取るが、 その当時はどうしてもパリの街並みが見たかったので、わざわざ街中のホテルを手配したのだ。 空港からタクシー、これは結構トラウマになっているので、最初に料金を確認して… 夜のパリ市街地に向かった... #
by MICROPARIS
| 2016-07-07 00:38
| LIFE
仕事として初めての撮影、そしてその写真が掲載された雑誌。
今なら当たり前だが、その頃の僕には不思議な感覚だった。 もちろん翌春には卒業なので、学校にも多くの就職斡旋が届いていた。 だが多くはスタジオのアシスタントや現像所、カメラ量販店などで、 僕にはどれもがしっくり来なかった... そして自宅で漠然と自分のクレジットが入った雑誌を眺めていた時に、 その雑誌の編集長から呼び出しがあった。 何事か?何か問題だったのか?いろいろな思いを巡らせたが、 その時の僕には完璧に想像外の話だった。 緊張した面持ちで編集部に行くとデスクで待っていた彼が開口一番に、 「君はもう卒業だろう?そのあとはどうするんだ?」 「未だハッキリしてないのですが…」 そう言いながらスキースクールのインストラクター姿の自分を想像していたのだが... 「決まってないのなら、編集部で働いてみないか?」 えっ?それって編集部員になるってこと?正社員?? 「もちろん最初はアルバイトだけど、やってみないか?」 具体的な就職もはっきりとしていなかった僕には嬉しい話だった。 自分の心の中のもう一人の自分が進め!と言っていた。 僕は迷わずその話を受けることにした。 卒業を迎える前に当初は時給で働く編集部員として、 新しい世界に一歩を踏み出すことになった。 もちろん写真も撮り、記事も書き編集作業もする。 日本中を取材しながら回ることが僕には嬉しく楽しい仕事だった。 そんな生活に馴染み出した頃、僕の人生に影響を与えるような出来事があった。 その出版社は決して大出版社ではなかったが、 当時はバスケットボール以外にもバレーボールを扱っていた。 バレーボールのワールドカップが日本で開催されるようになり、 カメラマンが足りない!という事態になり、バスケットの編集部員だった僕の写真を知っていた、 バレー誌の編集長からのオファーにより、バレーボールの写真を撮る事になった。 これを機にバスケットボール以外にも他のスポーツの写真も手がけるようになった。 その後、テニスやゴルフ雑誌も出版するようになり、 気が付けば写真を撮る時間が増え、カメラマンがいつの間にか本業みたいになっていた。 この頃には時給扱いの僕は日当扱いになっていたのだが、 当時の日給は5千円、でも20日働けば10万円、実際に仕事量も多く、 どこへ行くのも会社が経費を出してくれるので、二十歳の僕には十分だった。 だがこの出版社で僕の人生を更に決定付けるような出来事が起きた。 ある日、編集長から「君は英語はできるか?」そう尋ねられた。 小学校からインド人の先生に英会話をな習っていた僕だが、 決して自信があるわけではなかった。しかし僕の心の中のもう一人の僕がハッキリといった。 「出来ると言い切れ!なんとかなるぞ!」 もしかして、これはチャンスかもしれない…憧れていた海外取材かもしれない! そう思うと僕は自信たっぷりに「できます!」と言い切っていた(笑) それが切っ掛けで、僕は初めての海外取材を経験することになるのだが。 大きな出版社ではなかったので、編集部員とカメラマンの二人を送るよりは、 一人で写真も撮って記事も書ければ経費も浮くし… 今思えばおそらくはそんな理由だったのだろう。 だが初めての海外取材を任された僕には理由は必要ではなかった。 女子バスケットボール世界選手権、初めての海外は隣国の韓国だったが、 それもまた僕には日本以外ならどこでもよかった。 無事にイベントの取材を終えて日本に戻ると、 さらに別件のオファーが僕を待っていた。 #
by MICROPARIS
| 2016-06-29 17:00
| 「僕の一番物語
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